「死すべき時を知らざる人は、生くべき時を知らず」という言葉を見つけました。
夏目漱石が、その美学を自身の執筆の中で紹介している、
ラスキンという19世紀イギリスの美術評論家の言葉だそうです。
ハッとして筋肉が硬直してしまうような、
メッセージに出会うことがあるかと思いますが、
細かな意味解釈などせずとも、
文言の波動がまず心に刺さります。
読み返し「なるほどなあ」と思い、
更に読み返し「うまいなあ」と思い、
再び読み返し深い息が漏れる。
良い言葉とはそういうものだと、
再び思い知らされる名言でした。
今日という日は二度とやって来ないことや、
目の前にいる人が明日もいるとは限らないことや、
「諸行無常」の世界を、
私達は思考の片隅で、
まるで教科書の一文を記憶しているかのように知っているはずです。
でも私を含めどれだけの方が、
桜の花を愛でる様に、
今日を愛おしく生きていらっしゃるでしょうか。
生命が、後1ヵ月で滅びることを知っていたら、
今抱えていらっしゃる苦悩は、
果たして存在するでしょうか…。
自分のもとを去って行ってしまった恋人を想い、
答えのない現実に答えを求め、
泣いて過ごすのでしょうか…。
裏切ったご主人を憎み、
怒りの感情に震え過ごすのでしょうか…。
殆どの方は自身の生命が滅びる、その時を知らずに生きています。
問題はその時がいつなのかを知らないことなのではなく、
その瞬間は、必ず誰にでも平等に訪れるという真実なのです。
去って行った恋人にも、裏切ったご主人にも、
そして、悲しみや憎しみの感情を手放すことが出来ない、
あなたご自身にも必ず訪れる瞬間です。
花は美しく咲くことを望まず、
また散りゆく憐れを嘆くことはありません。
どんな環境にあっても生命を開花させることに懸命に、
その時が来たら、潔く散っていきます。
花そのものは生命の本質でないことを知っているかのようです。
私たち人間は、スピリチュアル=「魂」に肉体という服を着ながら、
尚且つ、その上に服をまとって生きています。
何十年も生きながら、
生命の本質が何処にあるのかを知ろうとしないのは、
人間だけかも知れません。
目の前に起こっている現実を変えることは出来ませんが、
どの観点から見るかによって、
現象に対しての感情を変えることは出来ます。
自分以外のものを変えようとすることは、
更なるストレスを生み、
ストレスは益々ネガティブな感情を引き起し、
負のスパイラルに巻き込まれることになります。
どんな絶望的な状況であっても、
だからこそ咲く花があり、
其処にしか咲かない花があるのです。
どんな花が咲くのか、
その目撃者になるために命はあるのかも知れません。
本日も最後まで読んでくださって、
ありがとうございました。
ブログランキングに参加していますので、
ワンクリックして頂ければ幸いです。