「魂」って、どこにあるの?
「心」って?
「魂」=「心」ではありません。
「魂」を表現するのは難しいのですが、
自分を創造している核というのが適切かもしれません。
私達の心は日々の出来事に振り回され、
思考と感情の影響によって、日々変化しています。
どんな風に変えてしまうのかを決定付ける舵が「魂」です。
同じ出来事でも其々に反応が違うのは、
過去経験による思考の有り方もさることながら、
最終的な決定をする「魂」の違いです。
「魂」のほぼ9割は、この世に生れ落ちてきた時に決まっています。
それが前世から引き継がれてきた、
自分では認識できない過去からの自分です。
残りの1割が、現世に於いて培われていく部分だと考えています。
「それじゃ、生まれた時から決まってしまっているんじゃない」
「前世の自分なんて、私のせいじゃないし、どうすればいいのよ」
…と思いがちですが、
ここが最も人生に於いて大切なことで、
自分を創造するたった1割の部分で、
私たちはこの現世でどれだれの「徳」を積み、
何を感じ、どう行動するのかによって、
気付きを得た後の人生と来世が決まってしまうのです。
つまり現世の1割が来世の9割を創造するということです。
どんな魂を引き継いで来ようと、
開き直らず腐らずに小さな徳を重ねていくことこそ、
私たちが過去に決めたはずの、
この現世で生きることの意味なのではないかと思います。
「魂」は驚くほどに、従順で素直です。
私達がどんなに上手な言い訳を用意したところで、
その行いに対する思いや感情をストレートに受け入れてしまいます。
どんな行いなのかよりも、どんな思いによる行いなのかが大事なのです。
司法の元に於いては一概に言い切れないデリケートな範囲ですが、
その司法にも情状酌量があるのは、
裁かれるのも裁くのも人であるからではないでしょうか。
「嘘も方便」という仏教語の諺がありますが、
嘘を付くことは大罪であっても、
自私利私欲の為ではなく、
自分以外の何かを守るという想いによる嘘を責められないという、
行ないそのものではなく真の想いの重要性を説いています。
「魂」を磨く日々の思いや行いは難しそうに感じますが、
越えようとしない時には、その壁は高く聳え立ち、
気付きを得て越える覚悟をした瞬間、
まるで壁が自らその身丈を縮めるかの如く低いものです。
何故ならばその壁は実際にはあらず、
私たちの甘えや邪悪な気持ちが創り出した、
虚像にすぎないからです。
スピリチュアルとは見えない世界のことでも、
特別な人たちの、特別なこと等ではなく、
私たち「人」そのものなのです。
本日も最期まで読んでくださって、
ありがとうございました。
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