霊視鑑定は灯かりの扉から

スピリチュアル霊視 『灯かりの扉』

この先に待っているもの

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私が結婚をして間もない頃、衝動的に結婚をしてしまった自分を後悔し、
後戻りが出来ない現実の中で、
日光寺という天台宗のお寺を訪ねたことがありました。

決して有名なお寺ではなく、地方の何処にでもあるような寺院です。

参道の案内図が目に留まり、急な坂道を登っていくと、
歴史を感じる境内が見えました。

お盆を過ぎたお寺には人影も無く、
夏の終わりを知らせる蝉の鳴き声だけが響き、
それが一層切なかったのを覚えています。

暫くすると、物陰から年配の男性がいらっしゃって、
一瞬不思議そうな面持ちで私を見ると、
「どうぞ、お線香を焚かれていって下さい」
と声を掛けて下さいました。

不慣れな私は、促されるまま境内にあがらせて頂き、
お線香を焚かせて頂いたのですが、

その男性はご住職らしく、凛とした佇まいで「どちらからですか…」と、
緊張の糸を解いてくれました。

観光客が訪れる様なお寺ではありませんし、
まだ若かった私がお寺を訪ねることに、
普通ではない何かを感じて下さったことに違いありませんが、
「お茶を飲んでいって下さい」と、ご自宅にまで招いてくださったのです。

「家内が留守にしていて、インスタントですが…」
と入れて下さったコーヒーを頂いていると、
それまでとは違った厳しい表情で、

「私が子供の頃、戦争を体験しました」と話し出され、
最後におっしゃった言葉を、私は今でもはっきりと覚えています。

「一本の雑草の陰に隠れてさえ、生きようとしたのです」

私の肉体は存在していても、スピリチュアル=「魂」が絶望と後悔の中で、
生きていくことを見失っていたに違いなく、
生気を失っていた私に、一期一会の説法をして下さったのだと思います。

「藁にもすがる想い…」とは、どんな現状の中でも、
それでも生き抜いていくことを、
無条件に選択することなのではないでしょうか。

時間は決して戻る事はありませんが、後悔が生む「氣付き」が必ずあるはずです。
もうどうすることも出来ないと決め付けずに、
最後の最後に、総てのことを受け入れる覚悟が出来れば、
必ず其処から道が出来るのです

人との出会い…、一言の出会い…、
スピリチュアル=「魂」を動かす何らかの出会いが、
誰にでも訪れるに違いありません。

私の病室には、あのご住職と同じくらいの年齢の女性がおられますが、
ひ孫さんが時折見舞いに来られては、
覚えたての言葉で、彼女を笑顔にさせています。

きっとこの女性も、生きること以外の何も考えず、
戦火をくぐって来られたのだと思います。

あの時死んでしまっていた方が良かったと、
苦悩と苦痛で眠れない夜を過ごしたこと、
長い人生に於いてあったに違いありません。

その時に、今の自分を想像できたでしょうか…。

ひ孫さんの紅葉の様な手を握りしめながら、
同じ歩幅で歩く幸せを想像できたでしょうか…。

今はどんな現状に苦悩しようと、
それでも生きて行きさえすれば、
「この先に何が待っているのか」を知ることが出来るのです。

もう知りたくないと顔を背ける方もおられるでしょう、
しかし、生きているからこその「四苦八苦」なのです。

この先にどんな苦悩が待っていようと、
その痛みも苦しみも総て喜んで受けいれる覚悟ですから、
どうぞいま少しの命を与えて欲しいと祈る方々、
祈った方々がどれほどいらしたことか、
幸も不幸も命あるからこそのこと。

どうぞ、この先に待っているものを両の眼で確かめてください。

例えそれが又しても苦悩だったとしても、
生き抜いた納得があなたを包むことでしょう。

*この文章は自身が入院中の今年4月に書き綴ったものです。

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