私は信仰している宗教をもっていませんが、
幼少の頃から仏陀の教えや新約聖書などを意味も理解出来ないまま、
ページをめくっていました。
何のことやらさっぱり解らなくても、
その膨大なページの中に大切な秘密が隠されているような気がして、
ドキドキな気持でめくっていた記憶があります。
二十代の頃に、ポスティングされていた布教のための小冊子を見つけ、
雑誌のコラム欄を覗くような気持で読んでいくと、
アメリカのある夫婦のことが書いてありました。
夫婦は二人の子供が授かることを日々神に祈りながら、
既に十七年もの月日が流れていました。
出産を考えると妻は既に高齢に差しかかっていて、
二人は子どもの居ない人生を生きようとしていた矢先に妊娠の事実を知り、
それはそれは喜び神に感謝したのです。
しかし喜びも束の間、医師から伝えられた言葉は、
喜びの絶頂にあった二人を、一瞬にして暗闇に突き落とすことになりました。
「検査をしたところ、生まれてくるお子さんはダウン症です」
医師は夫婦の年齢や子供のハンディーを十二分に考えて、
結論を出すように促しました。
それから暫くの間、夫婦はそれぞれに想いを抱えながら、
結論の出ない時間を過ごていましたが、
その口火を切ったのは妻の方でした。
「神はこの子を誰に預けたら良いのか、十七年もの間迷われ」
「そして私達に預ける事をお選びになったのよ」
「僕もそう考えていたんだよ」
夫婦は互いが出した結論に互いを愛しみながら、産むことを選択したのです。
自分たちは生かされていて、与えられる如何なることにも、
深い意味があるという基本的なものの考え方に、
大きな感動を覚えたのです。
その当時はスピリチュアル=「魂」に対してのデリカシーもなく、
現在のような霊視の能力も持ち合わせてはいませんでしたが、
夫婦の会話は確かに私のスピリチュアル=「魂」を震わせ、
現在の私のスピリチュアル=「魂」を形成している、
重要な一部になったことは間違いありません。
そのストーリーは布教の為の創作だったのかも知れませが、
スピリチュアル=「魂」は、創作と実話違いを問いません。
その時に感じたものだけがスピリチュアル=「魂」に沁み入るのです。
今現在は子供は親を選んで生まれてくると考えておりますし、
宗教的な意味合いの神ではなく、
私たち自身の内なる神(創造主)によって、
如何なることも与えられると思っていますが、
生かされているという視点からの思考回路が生まれたのは、
間違いなく魂が震えたあの瞬間だったに違いありません。
それが望ましいことではなく心が折れそうなことでも、
生かされていることを前提に「何故」を考えることができたら、
うな垂れた頭をあげ前を向けるのではないかと思います。
最後まで読んでくださって、ありがとうございました。
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